校歌をめぐる二つの疑問  

 明治35年開校した県立新潟中学校三条分校が県立三条中学校となるのは明治37年4月1日であり、その年の4月には校長飯田御世吉郎の命により図画科教諭秋保親美によって三条中学校徽章籠目   を考案制定した。翌明治38年10月には、平野秀吉作詞による三条中学校校歌が制定された。勿論、校長は飯田御世吉郎であるが、作曲者の名前はない。このあたりの事情について、故中沢育二郎氏(中第17回)は「校歌座談会・積れかし・来れかし」(平成2年度「源泉」)の中で次のように述べている。
「私自身はかつて源泉にも書いたように、学校創設期で金もなければなにもないその中で、平野先生が歌詞をつくられた。曲は借りてきた。将来はどうかわからんが、これで良いと思っている。大体明治以後の文部省推薦の歌などは歌詞は日本人の作だが曲はほとんど外国のものといってよい。」
 このように見ると、当時の校歌制定といえば作詞のみをさして、作曲は多分問題にならなかったのだと思われる。また、当時の草創期の中学校には金がなかったのも事実らしい。今日では学校創立と同時に校歌の制定がなされ、歌も曲も作詞家、作曲家の手になるものである。しかし、本校では平野先生が作詞をなされ、曲は他から借用しているし、その作詞されたのも創立2年目の10月のことである。どうしても校歌が必要になって制定したものだと思われる。
 しかし、作詞は大変立派な歌詞である。三条の地に立って、「守門」「信濃川」「弥彦山」「五十嵐」と東西南北のすべてを詠み込んでいる。尚その上に、論語、孟子、詩経、礼記の意や語を用いて七五調の歌詞とされている。
 ここで校歌の制定そのものには何の疑義があるわけではない。新潟中学校にも在職したことのある平野先生が、その関係で校長飯田御世吉郎の依頼によって作詞したということは充分うなずけることである。当然先生は三条の地に立たれての作詞であることも、その詩からうなずけることである。
 ただここに、校歌について二つの問題がある。それは、近年PTAの委員の中から三条高校の校歌を掲額しようという意見がでた時、校歌の原本または、制定当時なされたであろう掲額の資料、写真がまったくないということと、これも近年同窓生の間でいろいろ言われてきたことであるが、同窓会などで歌われる校歌の歌詞に年代によって違いがあるというものである。この二つの問題は校歌の掲額を進めようとする時、少なからず壁となった。
 この掲額の問題も、90周年を記念して、特にPTA諸兄のご尽力によって掲額することになり、一段落したことになる。揮毫は本校の書道教諭であった中村城翠氏である。歌詞は、当然のことではあるが、現在歌われている歌詞である。
 一段落したことを受けて、ここで三条高等学校校歌についていろいろあったことをまとめて記録しておくのも大切なことと思われる。

新潟県立三条中学校・高等学校同窓会