新潟県立三条中学校・高等学校同窓会
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「英語教師西沢ドラ先生の事など」 (30年度源泉より)

高第4回卒 長谷川 大八

私共高4回卒または併中2回卒生は国民学校(小学校)6年生の時に終戦となり、翌昭和21年旧制のまゝの三中に入学、暫くして新制高校の併設中学となりました。

国民学校での軍国主義教育が中学校に入り民主々義教育と一気に逆転、大きく変りました。それ迄英語は敵国語などゝ云われたりしましたが敵を知るには欠かせない分野。話では既に転任されていた英語の豊島良之助先生、突然急所をワシづかみにする愛称モウキン先生(猛禽‥鷲鷹類) その先生の息子(豊島宗厚)さんは新津医療センター病院の院長を勤めて居られ、因縁から小生の「かゝりつけ病院」のつもりでおります。

さて三中へ入学して甲組へ編入、担任は有名な小牧安吉マメシャン先生でした。階段教室のある建物の二階です。

英語の時間となりました。西沢三千三ドラ先生の来室です。緑がかった黄土色のスラリとした洋服を着こなして、いきなり英会話です。ステンダツプ、バーウ、セットダァンーーー、近所の村松中に入学した友達がいて、こちらも英会話だ、スタンダツプ、バァウ、セットダウン、と云う。よそでは発音が違う、文字から見れば、その方が正しい様にも見える(読み言葉と会話の差なのだが)ドラ先生の会話は本式の会話でした。窓側に来られてオープンザウインドウと窓を上にあげて開けました。教室の窓は上下動方式で上部に滑車がありロープで吊り下げ、両脇の空間の重錘とつながりバランスして、どこでも止める事ができる仕掛けと記憶しております。

ドラ先生の授業は教科書を読むより先ず会話でした。越前屋ホテル(旅館)へ米国駐在軍が訪ねて来た時、同クラスの明日川雅二氏が親に替って応待したとの話、さすがドラ先生、先見の明と感心させられました。

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「吉井秀行先輩を偲びて」 (29年度源泉より)

支部長(高4回卒) 長谷川 大八

故吉井秀行氏は終戦の年となる昭和20年3月三中第39回Aとして卒業されました。この年は正規の5年生Aと一年不足の4年生Bの5年4年の同時卒業となる異例の式典でした。

吉井氏は在学中に難関の陸士 (陸軍士官学校)を志願し合格、入隊指令迄待機の身でした。それが終戦となり大混乱の中、新しい道を探す事となりました。幸いにも国鉄に入社出来ました。吉井氏は文学青年だったのですね。国鉄の機関誌「国鉄文化」へ小説や戯曲を次々と投塙発表し、また文学結社の結成、同人誌の刊行等戦後新津の文芸復興に活動貢献しました。其の外新津良寛会の会長グループに属し平成10年5月「全国良寛会新津給会開催」 遂げておられます。

さて三中の通学グループには名があり、翹楚(ぎょうそ)会、金津は金城会と称したとの事。

新津支部は30年程間を置き、昭和60年より平成7年迄の間復活。その平成7年の支部長が中第31回卒の高塚壮一氏で、体調をくずされ中第39回卒の吉井氏へ支部長代理を指名依頼します。以来十数年本部との代行窓口を務める。平成20年10月旧校舎跡地記念碑建立事業が始まり、地区募金活動に新津在住の高4回5回生が召集されました。平成21年4月16日除幕式が終わり、その4月23日吉井代理者名で支部総会が開催され役員改選、現在に至ります。吉井氏には特別大先輩役員として残って頂きました。

吉井氏は度々足腰の痛みを訴えておられましたが、以前から「がん」 の治療を受けていた事を黙して居られ、それが末期となり「がんセンター」 へ急ぎ入られたとの事でした。

 平成28年3月25日逝去 享年91歳
 沢海(そうみ)の曹洞宗大栄寺様から頂いた法名
 新帰元「随雲院 秀法行文居士」
 
雲と共に大空を舞うが如く縦横に行動し優れた功績を残された方と偲びます。

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平成27年度支部総会

「新津支部総会と いろはかるた」

支部長(高4回卒) 長谷川 大八

H27年度支部総会は例年通り9月25日(金)割烹一楽にて開催致しました。今年同窓会では山井新会長へ、学校では上杉新学校長へと代る特別な年でした。山井会長はご都合により代理として横山正明副会長、そして上杉学校長のご臨席を得て、同窓会・母校の状況・活動等々のお話を頂き有難うございました。

総会第一部の締めくくりに吉井秀行先輩から卓話として「いろはかるた」(上)を予定しました。先輩止むを得ざる事情にて出席できず役不足の小生配布資料により代役させて頂きました。「いろはかるた」は「いぬ棒かるた」とも称され通常「江戸かるた」のことを云い、もともとは上方(京都・大阪)から伝わり来たもので、江戸から全国へ拡まったとの事です。そのいろはだけ紹介致します。

いぬもあるけば ぼうにあたる 江戸
いっすんさきは やみのよ   京都

動き廻れば禍に遭う、が原意で、良いことにも当ると解釈する人も居るとか。

ろんより しょうこ      江戸
ろんごよみの ろんごしらず  京都

現代も客観的物的証拠が最大の決め手、論語、理解はするが実行できぬでは困る

はなより だんご    江戸・大阪
はりのあなから てんのぞく  京都

風流よりも実利と解かれているが、今で云うなら建前より本音か。針の孔無理。

第二部は別会場にて懇親会です。神林輝夫先輩の発声による乾杯で始まり、歓談付きるきるところを知らず、あっと思う間に経過する。

横山副会長のリードのもと、校歌斉唱、その後、肩を組んでの第三応援歌の合唱、締めは諸橋英郎副支部長閉会挨拶で名残りおしくも終了となりました。集合写真と応援歌写真は羽入敏夫幹事の力作で、特に肩組み写真は良い記念になりました。

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平成26年度支部総会


「支部総会と良寛」
支部長(高4回卒)長谷川 大八

26年度支部総会は恒例の9月第4金曜日割烹一楽にて開催。最終参加総員15名の総会となりました。本部からはご多忙のところのところ渡達同窓会長、奥田教頭先生のご臨席を得て同窓会・母校の注目点や現況について種々お話を頂き、有難うございました。

総会第一部の締めとして、吉井秀行先輩より良寛についてのお話をお願いしました。テキストは「良寛の素顔」 (良寛禅師奇話より) です。※奇話は某時代の解良重氏(現分水町) の記した有名な資料。巻末には良寛の二通りの年譜と佐渡相川から養女として来た母おのぶの事、新津桂家の新次郎(誉章) の事、が付されています。

先ず良寛の出生から始まり、出生年が不明で4年程幅がある。それは没年から想定年令を逆算しているからです。良寛は決して話さなかった事が三つあると云う。それは生年月、年齢、僧になった理由、である。従って没した時何歳かはっきりしない。養女おのぶは桂家より来た新次郎と結婚するが、数年で引き戻され、与板から新之助(以南)を迎え再婚する。この様な家庭事情が有りました。何故僧になったか種々な説が有り判然としない。奇話の説明は序の口迄でしたが、ゆっくり読むと面白い。この人は本当に大人なのか子供なのか、偉いのか愚かなのか、又はそのすべてなのか、不思議な謎の人物です。

第二部は部屋を替えての懇親会です。今回国会議員となられた同窓生金子恵美議員よりご多忙乍ら熱い想いのご挨拶を頂きました。歓談懇親尽きぬところ校歌斉唱、応援歌で肩を組み名残惜しくも終了となりました。

この荒んだ時勢、良寛の暖かく広い心が見直され、いのちの落語家樋口強氏(新大法学科卒) が「今だからこそ良寛」なる落語の本を出版。考古堂書店には他良寛図書多々有。

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平成25年度支部総会

「支部総会と海軍教育」
支部長(高4回卒)長谷川 大八

25年度支部総会は9月17日(金)一楽にて開催、此度は風邪等にて来賓の方を含めて14名の総会となった。本部から渡遽会長、奥田教頭先生をお迎えして、同窓会の活動状況校務等詳細なご説明を頂き感謝致します。総会第一部の締め括りとして神林輝夫先輩(昭20年中第39回卒)より卓話「海軍教育」 予科練 (海軍甲種予科練習生) の話をして頂いた。その一部を記します。

昭和16年4月三条中学入学。新津より卜名程新津駅発7時11分の列車で通学する。その年の12月8日7時新津駅の拡声器が鳴り「大本営発表本日未明ハワイ(西太平洋方面) に於いて戦斗状態に入れり」本当に驚いた。昭和18年秋中学3年生。学生入口にポスター燃ゆる大空、決戦の大空、配属将校から海軍か陸軍へ志願を、じっとして居られず海軍へ志願。選抜は三次迄あり高倍率の中残り、米子の美保海軍練習航空隊へ入隊と決る。三中野口校長を始め先生方他報告と挨拶に廻り、日の丸の旗に激励の署名を戴く (写真)
19年4月入隊、過酷な訓練講義じっと耐え忍んだ。やがて飛行機に乗るんだと、班で耐え抜き不撓不屈と協同団結の精神を養った。



次が海軍教育の根本となる五省(ごせい)です。当時毎晩全員で斉昭す。 (現在税理事務所掲)
一、至誠に悖るなかりしか  悖る(もとる=はずれる)
一、言行に恥づるなかりしか
一、気力に缺くるなかりしか
一、努力に憾みなかりしか 憾み(うらみ=心残り)
一、不精に亘るるなかりしか

終戦で復員再勉学を志し苦労の上大学(法政)へ国税庁等々経済復興に尽力今現役所長敬服。第一部終了会場移して第二部懇親会、岡村兄先輩の乾杯で、開宴歓談尽きることなく校歌斉唱と応援歌。 賑やかな内岡村弟先輩の〆で名残り情しくも閉会と致しました。

連絡事項 平成26年度支部総会予定は9月26日 (金) 6‥30〜です。

「寄せ書きの日の丸」 神林輝夫氏は三條中学3年生の時(海軍)甲種飛行予科練習生に難関突破選抜され、鳥取県美保海軍航空隊へ配属となりました。これは平成23年5月6日(金)神林輝夫税理士事務所訪問時見させて戴き、カメラに撮ったものです。
「祈武運長久」 第6代三條中学校長野口精一氏の揮毫と署名に始まり、当時の先生方
の署名が並びます。左斜上には新津三年生一同とあり署名、又中央上には新津國民学
校長樋口三代基の名が見えます。

これらの方々を始め大勢の方々より、熱い憩を戴いた日の丸だと思います。
文責 長谷川大八
三條中学校長 野口精一
中居重四郎
鷲尾 三雄(この方は国民学校での先生)
西名 清
川崎 武一

川崎 武一
西沢三千三
大矢豊太郎
小松 安吉
中村 柳一
山代 唯勝
大渓 敬吾
渡辺 房太
吉本暁三郎
玉木 新助
遠間 正之
中野 惣平
須佐 守衛
秋保 松男
豊島良之助



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平成24年度支部総会

「支部総会と川柳」
支部長(高4回卒)長谷川 大八

平成24年度は9月28日(金)6時半より割烹一楽にて総勢21名、総会懇親会を開催しました。その前段として岡村先輩幹事のご苦労により明間先輩より翹楚会と大書せる資料袋を受領し、そこに幻の支部会則を発見。総会報告事項とし袋資料は支部貴重資料として保管する事と致しました。

総会開催案内状と名簿に関し近況短信では種々反響が有りました。(4名の逝去も確認)

此度は同窓会長、学校長所用有り、竹井満喜子副会長、佐藤一彦教頭先生のご臨席を戴き、会の活動状況校務等詳しく説明していただきました。

総会の締めとして大野英雄(号風柳昭20年中39回卒)先輩の川柳についての卓話をお願いセットしました。氏は柳都川柳社の主幹、更に全国川柳協会の会長を務められて居ります。戦後新津の文学青年に氏並びに同期の吉井秀行先輩が居ります。吉井氏は文芸全般にわたり活躍されました。大野先輩は川柳を選びました。仰有るには、新潟には川柳社が無かった事に着目しこの分野を切り間いて行った。又性として人間が好きであった事で会は生長し発展した。

昔の川柳は外から見て風刺をしたが、今は主観の川柳で喜怒哀楽、人とのつながりを大事にしなければならない。人間英雄と川柳が互いに助け合って64年続いた。自分で楽しみ乍ら人に喜んでもらえる。今も柳都と金川協が支え合っている。好きな句を探してくださいと柳都を皆で一冊づつ頂戴致しました。現在84才「趣味なればこそ生涯現役で居られる」と仰有います。まさに見習うべき先輩と感じ入りました。

ここで総会終了4階の懇親会場へ移動しました。窓からは五頭連峰が一望できます。

昭和19年卒の大沼忍先輩の乾杯で開宴歓談尽きる事なく経過し、副支部長の閉会挨捗で、名残り惜しくも散会となりました。
 
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平成22年度支部総会

「支部総会と詩吟」
 高第四回卒 支部長 長谷川 大 八

今年度は同窓会事務局から良き日と時間を教えて頂き、9月24日(金)午後6時30分より新森にて開催。お陰様にて来賓の方を含め21名の盛会にて終了致しました。

今回は個人情報が何かと言われる中、支部会員名簿を、敢えて全員へ案内状と共に発送しました。反響は「こんな近くに同級生が居られるのに驚き」「区内に大勢居られるのにビックリ」とか、アッと思ったのは若いお母さん同級生が居られる事「第二子出産で欠席」「第三子誕生でテンテコ舞」とか、まさに嬉しい短信が返って来ました。子育て後継者育成これは大事業、応援したいですね。

開会の挨拶に続き、渡邊同窓会長より、会の活動、社会人講話、定時制閉課程記念式典等小島学校長より校務、3年前から全県1学区となり、当校へも金津小須戸新津から三名の新入生を迎えた。三条高校の基本は文武両道、伝統はちゃんと続いている。放課後の補習コツコツと勉学に励むかたわら、千葉国体での活躍等々、お話がありました。

さて、次は地元先輩昭20年卒阪井定三岳心氏の詩吟朗詠、ぴったりの題、良寛に李白。

「同じこころ」 良寛

 世の中に 同じこころの 人もがな 草の庵に 一夜かたらむ

「山中にて幽人と対酌す」 李白

 両人対酌して山花開く 一杯一杯復た一杯 我が酔うて眠らんと欲す
     卿且く去れ明朝意有らば琴を抱いて来たれ 

声の張りと迫力、長年の鍛錬と精進の賜と感じ入り、後輩の以て範とすべき所です。

第二部は懇親会、小林源泉委員長のご発声により乾杯、楽しい宴の開幕、頃合をみて校歌斉唱、最後の〆は吉井先輩より、そして諸橋副支部長の閉会挨拶にて、再会を約し名残り惜しくも散会となりました。

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平成21年度支部総会

「支部総会再開」
高第4回卒 支部長 長谷川 大八

一年遅れの古新聞を敢て寄稿致します。当支部は平成7年以来昨年4月迄、諸般の事情で途切れて居りました。その間中第39回A卒の吉井秀行氏が支部長代行を勤めて下さいました。その労を謝する意味と当支部にとって大切な報告事項でもあり、四月総会では「源泉」の投稿〆切りも大巾に過ぎて居り断念致しましたが、此度諸般の事情概要も含めてお知らせする事と致します。

昨年4月23日(木)中條同窓会々長、小島学校長、渡遜次期会長のご臨席を戴き参加24名、新津のしにせ割烹「新森」にて盛大に開催する事が出来ました。

会長、学校長より再開へのお祝いと記念碑建立への感謝のお言葉を有難く頂戴致しました。学校長は新津のご出身で新森もよくご存じとは思いもかけない驚きでした。

議事では役員改選に開し吉井支部長代行より諸般の事情の説明もありました。

平成7年高塚荘一支部長のもと総会開催その後体調を崩され、吉井氏が頼まれて本部へ顔を出していた。笹原悟副支部長も体不調で夫々平成18年、19年逝去、原隆夫事務局会計担当副支部長も療養中にて総会も開けず支部長空席はならぬとの事で今迄吉井氏が代行を務めて来だのが経過でした。

その吉井氏より自称独断と偏見による提案が為され、多くの諸先輩の居られる中不肖小生に支部長、高第五回卒諸橋英郎副支部長と幹事(今回の諸作業各位)が承認されました。小生は身の程の仕事を、副支部長は記念碑の会計は引き受けたが会計が副支部長とは知らなかった。しかし宜しくお願いします。で、議事終了し、続いて懇親会。渡擾次期会長のご発声で乾杯、懐旧談に花が咲いて、やがて次期会長新支部長のもと校歌斉唱、本/は大野英雄(風柳)氏より名残惜しくも閉幕となりました。
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平成20年度

「私の中学受験」
高第4回卒 清 水 敏 郎

春弥生まさに受験、卒業の真っ最中です。私の中学入学試験は、昭和21年の3月でした。従来受験については、予備校、試験問題集、お守り等色々対策が講ぜられ、人生の一大転換期です。昭和21年は、終戦の翌年で物資もなく、食糧難の時代でした。

前年の6年生の冬、受験対象の生徒のみ、課外授業が二時間行われ、教科の復習、当校受験選択の理由等の、口答質問への対策が教授されました。小学校が、当時の交通事情を勘案されたのか、お米持参で三之町の旅館`會六aに宿泊の上受験となりました。

初めての旅館宿泊で、何か花やいだ気持ちで行った様でした。肥桶のトイレ、床が弾む柔道場、戦前は鋲打ちの靴を着用した為と推測される、異様に磨滅した階段が、印象に残っております。記憶に残ってる受験番号は、203番で試験問題の一つに、炭鉱夫が親元に送った手紙の文章で、当地は早や菜の花が咲いておる設定で、どこの地方の炭鉱か、一日の産炭量は何屯で、何屯積みの貨車に積載すると何輌の貨車が必要になるか。算数は面接で、直角三角定規を示し、何と云うものか。縦において、一回転させると、どういう物体になるか、又その体積の求め方と云うものでした。体操は飛び箱と、鉄棒の尻上りで、低い位置の鉄棒の尻上りは出来るのでしたが、飛びついて高い位置の尻上りは出来ず、塩引き鮭の如く、ぶら下がりっぱなしで、赤面のいたりでした。今振り替えると、旧制中学、六三三四制の教育改革での併設中学移行・高校とエレベータ式に上級し、3年間下級生なしの、都合六年間通った、あの木造校舎が取り壊され、本年ここに旧校舎跡地に、記念碑建立のこととなり、多数の同窓生が、青春の多感な時代を過ごしたことに思いをはせ、ひとしおノスタルジアを感じております。      (平成21年3月記)

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平成19年度

「旧二本松藩 戒石銘に想う」
中第39回卒 吉井 秀行 1月某日

寞の降る城下町二本松の坂の道を、丹羽氏十万石の居城跡霞ケ城を訪ねるべくショルダーバックを肩に歩いていた。正月の気配は残っていたが静かな街のたたずまいである。

目的は霞ケ城登上目にある長さ約八メートル、幅約五メートルの巨大な花岡岩の自然石に刻まれた、四句十六字の「戒石銘」を見るためである。 

爾 方 俸 禄  爾(なんじ)の俸 爾の禄は
民 膏 民 脂  民の膏(こう) 民の脂(し)なり
下 民 易 虐  下民(かみん)は虐げ易きも
上 天 難 欺  上天(じょうてん)は欺き難し(あざむきかたし)
  寛延己巳之春三月

意味は読む通りであるが、「お前の俸給は、人民があぶらして働いたたまものより得ているものである。お前は人民に感謝しいたわらねばならない。この気持を忘れて弱い人民たちを虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ」と解釈してある。

この「戒石藩五代藩主丹羽高寛が儒臣岩井田昨非の進言により、藩士の戒めとするため刻ませたもので、寛建二年(1749)にできたものである。この戒石銘が藩士の規範とされ、永く二本松藩政を高揚させたことであった。

原点は中国唐末、後蜀の君主猛昶の作によるものである。

さて、現今の世相を見る時、政治に携わる者、役人と謂われる官僚の中にはこの精神が失われ、ひたすら私利私欲、保身にのみ走り司直の糾弾を受ける者が後を絶たない。そうした報道に接する度、きまって思うのは此の「戒石銘」である。

国会議事堂前、省庁玄関にこそ建立し、行政府の戒めとすべきであろう。

明治戊辰戦争において、士道に殉じた二本松少年隊もこの風土の中でこそ生まれたものであろう。また今日でも二本松市には青少年の非行はないと聞く。

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平成18年度

「積かれし」を追って(抄)
高第4回卒 新津支部 長谷川大八

積れかしと云えば、来たれかしであり、これは既に決着済にて心配ご無用に願います。(平成2年度「源泉」校歌座談会、「想痕」にも転載)同窓諸氏で御存じの方も多いと思いますが、敢えて寄稿いたします。

岩波文庫新渡戸稲造著矢内原忠雄訳「武士道」第12章105頁記載「憂きことのなほこの上に 積れかし 限りある身の力ためさん」驚きです、意味するところは校歌と全く同一です。とかくするうちに奈良本辰也氏訳の「武士道」が平成16年2月に出版(28刷)され、その註に「・・・この歌は山中鹿之助幸盛の作とされている・・・」と出ている。その様な歌もあったのか調べなくてはと、遂にあった。米原正義編「山中庭介のすべて」谷口廻瀾編著「山中鹿介」にである。

米原本では板垣退助が鹿之介の歌として紹介、議会解散の析党員を激励した、とある。ところが続いての解説で、この一首は陽明学者の熊沢蕃山の作と考へられている。である。

谷口本では、庭之介落命の地である「河井渡」と題する琵琶歌に、この歌がそっくり載っている。そして井上赳の一文がある。小学国語読本尋常科用巻9に「三日月の影」が載るとして、幸盛公は文字通り七難八苦と闘い一意主家の為至誠を捧げ・・・これこそ熊沢蕃山の歌「憂きこと・・・」の実践的体現に外ならぬと云う。そこで、「増訂蕃山全集」第7冊「蕃山先生和歌」の補遺に出ていた。宮崎道生著「熊沢蕃山の研究」でも結論の中に出ている。岡山時代の庶民教育が想察される。よく知られた和歌今様、の和歌がこれであった。

初出の創痕を読み直したら、佐藤暢夫氏の「尚身の上に積れかし」が転載されており、良寛の歌があります。「憂きことの尚この上に積れかし 世を捨てし身にためしてやまむ」上ノ句は全く同一です。これはどういう事なのでしょう。  「良寛歌集」吉野秀雄校註 807番にありました。下ノ句は、ためしてやみん、となって。頭註には、林本より採る。但し世間周知の「うきことの・・・」をもぢったものにすぎない。と記載されていた。 という事は、江戸期にしろ明治大正期にしろ周知の歌なのか、鹿之助か蕃山は別として。勿論新渡戸博士は知っていた。敢えて蛇足として、歌の前後の解説を考えると一人の典型的なる武士は鹿之介と見ておかしくない、そしてこの歌を吟じて己を励ました。となれば博士は蕃山より鹿之介の方が理解され易いと考えられたかも知れない。

 
 

 

 
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